'12読書日記54冊目 『股間若衆 男の裸は芸術か』木下直之

股間若衆―男の裸は芸術か

股間若衆―男の裸は芸術か

190p
総計14867p
なにをアホな本を読んどんねんと突っ込む諸兄もいらっしゃることだろうが、実際アホな本である(アホは関西弁では褒め言葉である)。筆者は東大の文化資源学の教授。その筆者が題材とするのは、日本の街頭のいたるところに存在する、一度は見たことがあるはずだが誰も気にもとめなかった男性裸像の彫刻である。
筆者の着眼は、その彫刻像たちの「股間」である。明治開闢以来、西洋芸術を受容することに徹してきた。だが、日本人芸術家(と日本人)にとって思いもよらない壁が立ちはだかる。それは西洋芸術の中心に燦然と輝き続けてきた、(男性)裸像である。ルーヴル美術館を訪れたものは誰でも、うんざりするほどの(古代ヘレニズム以来の)男性裸像を見た記憶があるはずだ。それほどに裸像の彫刻は西洋芸術にとって欠くことのできないものなのだ。しかし、日本人――西洋の文化や政治体制を受け入れ始めた日本人――にとって、そうした裸像の存在は、あまりに文脈から逸脱していた。つまり、西洋的な政治文化を受容するということが同時にマナー・風紀というものを法的な監視のもとに置こうとすることでもあった以上、裸像を芸術として受容することはできなかったのである。言い換えれば、裸像は芸術として認められるどころか、風紀を乱すものとして否定されてしまうのである(ロダンの裸像でさえ、一般公開されることは禁じられた)。
しかし、とはいえ、裸像、特に猛々しい男性裸像が芸術の最高峰であることには変わりがなく、芸術家たちはそうした裸像を作品として認めさせるべく、さまざまな手段に講じることになる。それは股間部分をどうにかして「股間」と認識させないようなテクニックであった。筆者によれば――筆者のふざけたアホなネーミングセンスは最高だ――、股間部分を曖昧にぼかして彫像する「曖昧模っ糊り」、もはや股間を溶かしてしまった「とろける股間」、ふんどしや葉っぱ、パンツなどによる隠蔽などの日本独自の彫刻テクニックが、警察の風紀撹乱取締との闘いの中で出来上がってきたという。
そうした彫像のいちいちを日本芸術史の中において語り直す試みは、筆者の細かい調査と幅広い見識に支えられて、アホなだけではなく、充実した読み物に仕上がっている(その分いっそうアホであるが)。だが、さらに、本書の目的はただただ男性裸像の不可解さをあげつらうだけではない。筆者は、男性裸像が風紀壊乱として芸術的に否定され、その打開策として曖昧な股間の彫像がなされてきた結果、日本において裸像は女性がメインとなり、男性裸像が次第に作られなくなっていき、男性の裸が芸術的な対象とみなされにくくなってしまったと主張する。筆者は、『薔薇族』(もう廃刊してしまったが日本における有名なゲイ雑誌)や三島由紀夫の逸話などを引きつつ、芸術の対象から漏れてしまった男性裸像が、日本の文化史の中にどのように伏流しているのかを明らかにする。「股間若衆」というタイトルのふざけ加減(それにしても素晴らしいタイトルだ)にもかかわらず、日本芸術史を別の視野から眺め、重要な問題提起まで行うという、なかなか侮ることのできない一冊だ。