'12読書日記88冊目 『サバルタンは語ることができるか』ガヤトリ・スピヴァク

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

148p
総計25342p
フーコードゥルーズをある程度知らないときっと読むのが厳しいだろう。フーコードゥルーズらへの批判と、マルクスデリダの読み直しによって「第三世界」のサバルタン研究の批判力を磨こうとする本だからだ。
批判の論点は大きく3点。第1に、フーコードゥルーズは西洋の歴史・権力のみを研究しているが、その西洋は第三世界帝国主義的・資本主義的に抑圧・搾取することによって自己同一性を保っているのであり、それを無視するか、あるいは「第三世界」という風に一元論的に処理してしまうのは問題だということ。第2に、フーコードゥルーズは自らを、つまり書物を記している「私」を透明で不可視なものとして扱っているが、それは往々にして大学や出版という制度に依存した特権的なものであり、批評家としての責任を放棄していることになるのではないか。第3に、第2の点について裏腹なことであるのだが、フーコーに顕著なように、彼らは被抑圧者そのものに「語らせ」ようとする。つまり、フーコーはかつての共産党知識人やサルトルのように大衆を啓蒙し指導する前衛知識人の役割を担うことを拒否し、権力に対して様々な場所で蜂起し抵抗する人々らそのものにありのままを語らせることこそを自らの仕事だとしている。そうした知識人であることの否定は第2の批判点にあるように自らを完全に透明な主体だと定位することにつながるし、いっそう問題なのは、彼らが「サバルタンは語りうるか?」という問いさえ掲げていない点である。
サバルタンは語ることができるか? この問いは反語にほかならない。スピヴァクはそれを、資本主義と連動した帝国主義的権力のもとで植民地国がいかなるエピステーメーのもとにあり、その中で、その外で、主体がいかにして不可能であったかということを分析することによって論証する。スピヴァクフーコー的な知-権力の枠組みを用いつつも、終局的に依拠するのはデリダのグラマトロジー分析の方法であり、テクストに書き込まれた空白を、言うことが拒絶された事柄を測定しようとするのである。サバルタンを代表したり耳を傾けたりするのではなく(前衛知識人)、サバルタンにありのままに語らせるというのでもなく(フーコー)――というのも、サバルタンは語ることができない――、サバルタンに語りかけるすべをどのようにして獲得できるのかを学ぼうとすること、スピヴァク書きとするのはこのぎりぎりの闘いである。インドのサティー寡婦焚死)の伝統をイギリスの植民地政策がどのように解釈してきたか、あるいはインド自身がヒンドゥー的伝統を植民地主義との関係においてどのように作り上げたのか。サティーという語をめぐる解釈の争い(ディフェランdifferend(リオタール))を分析して理解されうるのは、それらのどこにも「寡婦」の、つまり「サバルタン」の言葉が現れでないということである。植民地主義的な言説はサティーを禁止することで自らを「茶色い男から茶色い女を救い出す白人」として描き、他方でヒンドゥーナショナリストは「サティーへ向かう女は死ぬことを望んでいた」、あるいは「サティーへ向かう女は勇敢である」と語る。これらの対立する言説の中にサバルタンは沈黙を守る。一方は、寡婦を救出する対象としてみなすことでサバルタンを客体化しようとし、他方は、サバルタンの自由意志を認めることでそれを主体化しようとする。サバルタンは「主体としての身分と客体としての身分のあいだで暴力的なアポリアに追い込まれる」。こうした読解を通じて、サティーという語にあらわれでるイデオロギーが批判にさらされ、脱構築されるのだ(スピヴァクイデオロギー批判をフーコードゥルーズが捨て去ったということをも批判している。その点で、彼女のマルクスブリュメール18日』の表象darstellungと代表vertretungの違いを区別した読解はスリリングで的確である)。
サバルタンに向けて語る方法を模索すること。スピヴァクデリダの「わたしたちのなかの他者の声である内なる声にうわ言を言わせる」という言葉を、このサバルタンスタディー方法序説のモティーフに挙げている。サバルタンに向けて、全く他者に向けての呼びかけ、このことがわれわれのなかにある他者の声を響かせることにもつながるというのだ。このことは翻って、スピヴァクに自分自身が経験してきた知的訓練の一切を忘れ去ることを要求する。

「反乱」を「知識のためのテクスト」へと変形させる歴史家は、集合的に意図された社会的行為の、たんにひとりの「受信者」であるにすぎない。その失われた起源へのノスタルジアは不可能とされているのであるから、歴史家は自分自身の意識の発する叫び声(あるいは学問的訓練によってもたらされるようなたぐいの意識効果)を(できるかぎり)停止しておかなくてはならない。反乱についての叙述が反乱者意識でもって包装されて、それ自体が「調査の対象」、あるいはさらに悪いことには模倣用のモデルになってしまうようなことのないようにである。

自ら語る歴史を持たないサバルタンについて知識人が語ろうとするとき、その知識人の語りが自らの希望や思想を反映したものであるとするならば、サバルタンのナラティブをそれは語りえないだろう。それは知識人の意識において現れるサバルタンであって、そこにはまたしても自ら語りうるものとしてのサバルタンはいないからだ。きわめて難しい試みを強いられているといってもいい。しかし、知識人が自らの知によって大衆を啓蒙し――そのことによって大衆を抑圧することなしに、あるいは知識人が透明な主体(しかしその透明性は往々にして特権的な制度によって自らが支えられているということを忘却させる)としてサバルタンに語らしめる――だがサバルタンそのものは語るべきナラティブを持たない――ことなしに、サバルタンについてなにか語ろうとするのだとすれば、こうしたギリギリの厄介な戦略しか残されていないということ、そしてこのことを知識人は引き受けなければならない、とスピヴァクはいうのである。