読書日記 『怒り』吉田修一

怒り(上) (中公文庫)

怒り(上) (中公文庫)

怒り(下) (中公文庫)

怒り(下) (中公文庫)

久しぶりの更新。博論を無事提出いたしまして、残すところは最終審査ということになりました。
今年は学会発表もせず、博論書き&バイトということで、新しい研究の進展はほとんどありません。悲しい。ほんで学振も通らへんかったので、来年もバイトの日々が決定。
非常勤講師になりたい! 教歴をつけたい!

わーわー言っておりますけどもね。博論を提出して一息ついたので、カントとあんまり関係ない本しか読みたくない気分になります。映画が公開されていたけれども、広瀬すずが過酷な演技を強いられているということを聞き、見るのが怖くなって原作に。しかし原作も怖かった。
吉田修一はものすごいエンターテナーなのだと思います。ゲイの描写は非常に生々しい。確かにあのようなパーリーピーポーゲイは一握りではあるとは言え、一抹の信憑性がある気がします。「怒り」というタイトルながら、主題を流れているのは、人と付き合っていくことがかくも困難であり、信じるということが裏切られることへの予期のために崩壊し、取り返しがつかなくなる、そういうことであろうと思いました。
沖縄編の、あの青年が、ひと目を隠れてペンションの客の荷物を乱暴に投げ捨てるシーン、どこか心の襞を逆なでするような恐ろしさがありました。あそこが一番、怖かった。
もちろん、多少の不満はあります。大きいものとしては、死を描かなければそれは伝えられないようなものであったのか、というもの。いくつかの死が登場しますが、そのうちのいくつかは不要なものであったのではないか。もちろん死をとりたてて意味をなさないものとして書くことを非難しているのではないのですが、死が意味をもつように書かれているこの小説のなかで、しかしその意味あるものとして扱われている死は本当に描写の必要性があったのか、その人は殺される必要があったのか、そのような感慨を持ちます。上野公園で行きずりで死んでいく必要があったのか。

細かいことですが、吉田修一の文章はところどころ違和感があって、僕は流暢にはあまり読めなかった。

泉の言葉に頷いた田中が、食パンの袋をパンッと破る。

これ、どないやねん。

'16読書日記10冊目 『民主主義の源流:古代アテネの実験』橋場弦

古代ギリシア、特にアテネの民主政は、毀誉褒貶著しいものがあるが、実体はよく分からないものだと思っていた。本書は、アテナイ民主政の制度史の専門家による、概説書である。
古代民主政、とりわけその公職弾劾裁判について記述が深い。衆愚制に陥って破滅したアテナイという評価も、かなりの程度見直されるべきだろう。だが、民衆による裁判というものについて、三権分立の観点から(ある種のアナクロニズムをおかしてでも)考える必要がある。

'16読書日記9冊目 『迷走する民主主義』森政稔

迷走する民主主義 (ちくま新書)

迷走する民主主義 (ちくま新書)

変貌して、迷走する民主主義… Ach, Demokratie...
やや悲観的な書きぶりだったが、これが真摯な学者たる態度なのではないかと思わされる本書である。
政治改革を掲げた政治学者たちへの痛烈な批判、民主党政権時代の政策や権力観などを総ざらい的に回顧し点検する眼差し。昨今の自民党政権への嫌気から、民進党や野党連合へ否応なく期待も高まるのだが、そうした熱に浮かされる前に、あのChangeの時代を冷静に検討し、何を反省すべきだったのかを考察するべきだ――これが本書の基調であろうと私は読み取った。
本書の民主党政権下の評価は極めて辛いが、特に陸海空の交通に関する民主党時代の政策のダメさ加減は、筆者でなければこれほどまでにクリアに論じられず、あたかも交通政策が民主党政権の迷走を象徴してさえいるようである。これだけを読むためだけにも、価値のある本。

変貌する民主主義 (ちくま新書)

変貌する民主主義 (ちくま新書)

'16読書日記8冊目 『ポスト代表制の政治学』山崎望・山本圭

ポスト代表制の政治学 ―デモクラシーの危機に抗して―

ポスト代表制の政治学 ―デモクラシーの危機に抗して―

代表制民主主義の危機が叫ばれて久しい。民意と代表の乖離というのが、その最も基本的な問題なのだが、この問題は、次のようにさらに分節化できる。この乖離がどのように生じているのか、どのような意味を持つのか、乖離しているとしてそれがなぜ問題なのか、そもそも代表制とはなんのために必要なのか、既存の代表制が民主主義にとって不都合なものであるとすればそのオルタナティブをいかに考えるのか。
代表と民主主義というのは出自の違う二つの原理であり、その混合であるとしばしば語られるのだが、代表概念自体が――私の見るところ民主主義そのものよりも――多義的であり、どのような観点からアプローチするかで様々に捉えうるために、上記の一連の問いの答えも多様になっている(例えば、古典的なハナ・ピトキンの研究もクリアカットとは言えない概念分析になっている)。本書が捉える「ポスト代表制」というのは、代表制を廃棄して直接民主主義の実現をめざす、というような単純なものではない。むしろ代表制の理解を徹底的に突き詰め、その可能性の限界を見極めあるいは脱構築し、民主主義と乖離しているとされる代表制を批判的に捉え返し、民主主義とともに代表制をリブートするすための標語である。とりわけ序文で顕著に意識されているように、19世紀的な階層社会にもとづいた利益代表(政党)がもはや現実に即しておらず、しばしばイデオロギーと政党、投票集団の結びつきが消失するという社会の変化、さらにグローバルな形で統治が稼働し、ナショナルな代表というだけにとどまらない代表が可能になっているし、実際すでにそのような代表を考察すべき現実がある。現実社会の変動に常に思考が遅れをとるとしても、その変動を無視したまま代表制を自明のものとして受容し続けるには、困難な時代になっている。
本書の構成は以下である。

序 ポスト代表制の政治学に向けて(山崎望・山本圭
1 直接民主主義は代表制を超えるのか?(五野井郁夫
2 国境を越える代表は可能か?(高橋良輔
3 代表制のみが正統性をもつのか?(山崎 望)
4 熟議は代表制を救うか?(山田 陽)
5 動員は代表制の敵か?(山本 圭)
6 宗教と代表制は共存できるか?(高田宏史)
7 民意は代表されるべきか?(鵜飼健史)
8 全体を代表することは可能か?(川村覚文)
9 真の代表は可能か?(乙部延剛)
あとがき

このように多様な論点が提出されているのだが、本書は、編著にありがちな、論者ごとの理解や論文のクオリティのバラ付きが感じられず、代表制と民主主義を取り巻く議論の可能性を様々な側面から示しており、非常に充実した書物になっている。欧米の基本的な研究はしっかり抑えられているし、議論は非常に手堅い――にもかかわらず知的刺激を与えてくれるものであるという、稀な性格を持つものでもある。決して教科書的なものではない。
例えば、既存の代表制の不備(民意との乖離)を批判し、それを補完することで民主主義を活性化しようとする、直接性を志向したオルタナティブを構想する論文があるかと思えば、直接性/代表性という二分法に懐疑的な眼差しを向ける論文もある。例えば、前者としては、近年の直接民主主義的運動の世界的動向と日本の動向をグローバルな視野で捉え直して理論を与えようとする五野井論文や、同じ直接性への志向を持ちながらも、ずっと以前から悪評高くまともに受け止められてこなかった「上からの動員」という政治手法を再考し、そこに集合的アイデンティティを新しく作り出していく可能性を見る山本論文がある。かと思えば、鵜飼論文は直接性(民意)と代表という、現前/表象の西洋形而上学システムにつらなる政治理解を脱構築し、代表制それ自体が包含する矛盾を明るみに出す。高橋・山崎論文では代表と代表される者のナショナルな限界がグローバル化した社会のなかでかなりの程度揺らいでいるということが指摘される。高橋論文ではステークホルダー・デモクラシーにおける代表概念が一つのありうるオルタナティブを提示するものとして示される。山崎論文は――本書の中で唯一と言っていいかもしれない――行政権力のあり方も含めた統治の問題系を代表との関係で論じており、しかもそれがグローバル・ガバナンスの文脈で考察される。山田論文では、熟議民主主義論が代表制をどのように捉えることができるのか、とりわけミニ・パブリックス論のジレンマとでもいうべき問題や熟議システムという新たな視点が解説されている。イスラームを西洋世界がどのように表象-代表しえるのか、リベラルデモクラシーはそもそも彼らを代表できないのではないか、という今や日本でも無関心ではいられなくなった問題を扱う高田論文、戦前の「國體」をめぐる論争(天皇主権説・天皇機関説)から全体をあますことなく代表しようとする理論を構築する誘惑が危険性を孕む点を指摘する川村論文。さらには、フローベールの「紋切り型」に、トクヴィルマルクスが見出した2月革命期における代表制の自壊とは別の可能性を見る乙部論文もある。
代表概念は民主主義と同じ程度に政治思想の中核概念であり、にもかかわらずそれゆえに、正面切って論じることの難しいものだとも言える。本書を通読すれば――やや記述が濃密で、集中力を必要とする箇所もあるし、ある程度この種の議論に慣れていなければ置いてけぼりを食らうところもあるかもしれないが――、問題系を一わたり理解し、これから代表と民主主義、代表と政治について粘り強く考えていくための足場、しかも最先端の足場を得ることができるだろう。

代表制という思想 (選書“風のビブリオ”)

代表制という思想 (選書“風のビブリオ”)

Representation (Key Concepts)

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  • 作者: Monica Brito Vieira,David Runciman
  • 出版社/メーカー: Polity
  • 発売日: 2008/10/20
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The Principles of Representative Government (Themes in the Social Sciences)

The Principles of Representative Government (Themes in the Social Sciences)

The Concept of Representation

The Concept of Representation

Representative Democracy: Principles and Genealogy

Representative Democracy: Principles and Genealogy

'16読書日記7冊目 『連帯と自由の哲学』リチャード・ローティ

連帯と自由の哲学―二元論の幻想を超えて (岩波モダンクラシックス)

連帯と自由の哲学―二元論の幻想を超えて (岩波モダンクラシックス)

久しぶりにローティ。彼の政治観はあまり賛成できないのだが――なぜ賛成できないのかうまく言語化できないので、困ったものだが――プラグマティズムのある種のラディカル化というか、そのようなものを見届けるために読んだ。というのは嘘で、ガダマー『真理と方法』を読むゼミを昨年度受講していて、その参加者と読書会をしようということになって読んだのだった。ガダマーの真理観はローティと通じるところがあるのではないか、ということだったのである。通じているかどうかは簡単に答えを出せるようなものではないが、少なくともローティが本書の終章で紹介するドナルド・デイヴィドソンの真理観とはかなりの程度の類似が認められるのではないかという気がする。ではどこまでが類似していて、どこからが乖離していくのか、というのはまださらなる考察を要するだろうが。本書では、ロールズの反省的均衡という方法がいかにプラグマティスト好みのものかという解釈もされていて、ロールズ研究をしている人によれば、それは結構妥当な解釈になっているとのこと。だとすると、僕はあまりロールズが好きではないことになってしまうので、これも困ったことであるなあ。

'16読書日記6冊目 『社会科学と高貴ならざる未開人』ロンルド・ミーク

社会科学と高貴ならざる未開人―18世紀ヨーロッパにおける四段階理論の出現

社会科学と高貴ならざる未開人―18世紀ヨーロッパにおける四段階理論の出現

極めて面白い本であるのに、きっと何の本かわからず――本屋さんはどこの書棚に配架するだろうか――売れていない感じがぷんぷんする…。副題は「18世紀ヨーロッパにおける四段階理論の出現」である。この副題でもやはり分からないだろう…。
18世紀後半の社会思想を汎ヨーロッパ的に彩っていたのは、極めて特徴的な発展段階論であった。アダム・スミスとチュルゴーによって考案されたそれは、人びとの生活様式にもとづいて、社会の発展を、狩猟採集・遊牧・農業・商業と四段階に区分する。進歩史観はいわゆる啓蒙の歴史哲学に特徴的なものだが、この生活様式に基礎づけられた社会の進歩への眼差しは、スミスとチュルゴーを通じて、政治経済学あるいは一般に社会科学の成立をもたらすことになる。この思想の延長線上に、コントの人類史やマルクス史的唯物論が位置づけられるのは言うまでもない。
本書『社会科学と高貴ならざる未開人』が探求するのは、この社会発展の四段階理論の成立と変転の思想史である。「高貴ならざる未開人」というのは、四段階理論の出自の一つに関わっている。本書によれば、社会発展を生活様式に基づいて観察するという眼差しが生まれたのは、起源としてはアメリカの発見に由来するものが大きい。新大陸アメリカで生きる原住民たちは、自然法論において理論化されていた自然人そのものとして考えられた。当時、人類史を考えるときに、絶対的に外せないフレームワークとなっていたのは、もちろん聖書である。聖書の記述には、このような原住民は出てこない。聖書の記述にあるような創成当初の人間が、アメリカ原住民なのか。アメリカ原住民は「われわれ」の祖先と同根なのか。「われわれ」の祖先はあのような野蛮人と同じだったのか。このような問題が生じてくるのである。どのようにして「高貴ならざる未開人」を人類史のなかに、聖書と整合的に位置づけるのか。初発の問題は、こうしたことであった。本書の第二章が主張するように、16世紀・17世紀を通じた論争の末、ヨーロッパの知識人が受容せざるを得なくなったのは「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という仮説である。本書は、こうした問題がどのように歴史的に扱われてきたのかを論じるという点で、初期近代の旅行記や歴史書の思想史、歴史叙述の歴史(history of historiography)であると言える。しかも、その歴史の分析は、非常に精緻である。例えば、以下の叙述を見てみよう。

さて、これから我々が辿ろうとしなければならないのは、アメリカ人に関するあれこれの問題に関する同時代の議論が、「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という萌芽的な考えにいかにして漸次的に向かっていったか、である。ここで記憶しておかなければならない主要点の一つは、私の考えでは、文明化されていないアメリカ人社会と文明化されているヨーロッパ社会が共存しているという発見だけでは、ヨーロッパ型の社会が通常はアメリカ型の社会から始まり発展したという見解を生み出すには、不十分であったことである。〔…〕
「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という仮説が受容される何らかの実質的な方策を確保したいと望む前に、明らかに必要であったことは〔…〕当時のアメリカ社会の基本的特徴が、そこから当時のヨーロッパが進化したまさに最初のタイプの特徴に本質的に類似している、というある種の演繹的、あるいは「歴史的な」論証であった。そして、アメリカ人に関する文献は、それ自体結果として、まさしくこの種の「歴史的」論証を導くものであり、むしろ包含してさえいた。

文明化されていないアメリカと文明化されたヨーロッパの同時代的共存を、ある種の歴史的発展のモティーフとして読むためには、つまり「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という仮説が受容されるためには、初期近代のヨーロッパのエピステーメーの限界を規定していた聖書の記述とどう折り合いをつけるのかということだけでなく、ヨーロッパの始原が現在のアメリカと何らかの点で類似している、という発見が必要だったのである。その類似を構成するものとして次第に挙げられ、スミスとチュルゴーに結実する観点こそ、生活様式への着目にほかならない。
四段階理論を可能にした思想の潮流は、本書によれば、所有の歴史的起源に関する議論、摂理的歴史理論、古代近代論争である。こうした論争のフレームワークのなかで、アメリカの原住民の存在がどのように解釈されてきたのか、これを追っていくのである。そうしたなかで生成されてくる社会科学の基本的な視座は、同様の原因は常に同様の結果をもたらすということ、そうした因果連関を可能にする者のなかで最も根本的なものこそ――モンテスキューが雑多に上げた気候や風土ではなく――生活様式だ、というわけである。「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という主張は、もちろん古代近代論争の視点では、ヨーロッパ近代は、「高貴ならざる未開人」よりも優れているという解釈と同伴である。しかし他方で、ルソーのようにこれに極めて批判的な態度をとった人物も、本書では十分に論じられている。

'16読書日記 5冊目『啓蒙の都市周遊』エンゲルハルト・ヴァイグル

啓蒙の都市周遊

啓蒙の都市周遊

ドイツ啓蒙を、都市ごとに論じた好著。ただ、「啓蒙主義」という訳語はどうなのだろう…。

第一章 都市と啓蒙:序にかえて
 1.都市史としての啓蒙主義
 2.都市の衰退について
 3.一六〇〇年から一八〇〇年にかけての文化的中心地の移り変わり
 4.書籍市場と都市
 5.目に見えぬ境界
 6.交際の場としての都市
第二章 都市と国家の間の大学
 ライプツィヒ:ドイツ啓蒙主義の始まり
 ハレ:啓蒙主義の最初の大学
第三章 都市の出来事としての啓蒙主義
 ハンブルク:都市の啓蒙主義
 ハンブルク:視角のための都市
第四章 中心と周辺
 ライプツィヒ:ドイツのアテネ
 チューリヒ:文芸における宗教の変化
第五章 カント:論争の中心点
 カント:ケーニヒスベルクの空
 ケーニヒスベルク:啓蒙のメタ批判
第六章 ベルリン:分割された首都
 ベルリン:ユダヤ啓蒙主義の都市
第七章 ゲッティンゲン:完成したハレ
第八省 南部の啓蒙主義
 ウィーン:啓蒙の最後の祝祭