07読書日記60冊目 「新しい文学のために」大江健三郎


新しい文学のために (岩波新書)

新しい文学のために (岩波新書)


大江健三郎による文学論。


「文学とは何か、文学をどのようにつくるか、文学をどのように受けとめるか、生きていく上で文学をどのように力にするか」ということについて述べた論文。


論文の核となるのは、文学の言葉と、口語という二者の比較に論を発する「異化」という力。「異化」とは、ロシア・フォルマリズムの用いた文学用語である。日常生活でつかわれる習慣的な言語は、自動的なものとして全く意識されてはおらず、知覚の枠からは外れている。そこで、この「異化」という作用はものを受け取り手に明視させ、知覚を難しくし、長引かせる難渋な形式の手法である。なめらかな情報伝達、それは例えばベストセラー小説につかわれる文章表現には、生まれ得ない手法である。芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であり、作られてしまったものは重要な異議をもたない。一つ一つの言葉を工夫して、ありふれた日常的な言葉の汚れやくたびれを洗い流し、仕立て直して、その言葉を人間が発見したばかりでデモあるかのように新しくすること、あるいはいかに見慣れない、不思議なものとするか、ということこそ「異化」なのである。


そして、この「異化」された文学の言葉を通じて、読者に喚起されるものこそ想像力である。大江はフランスの哲学者バシュラールの言葉を引いて、想像力とは近くによって提供されたイメージを歪形する能力であり、基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力である、想像力は状態ではなく人間の生存そのものである、という風に言う。


こういった「異化」の作用は、小説の文体、筋立て、コンテクスト、など様々なレヴェルで行われなければいけない。それには読むことを通して書くことへつなげていく、戦略の様なものが必要される。つまり、優れた古典などの文学作品をただ漫然と読むのではなく、「異化」された部分を発見し、作者の戦略を、そしてその時代の息吹きに耳を済ませることが必然なのである。


後半はややテクニカルな、というよりも具体的な「異化」の事例に基づいて詳細が述べられる。その中では、トリックスターの存在や、子供の存在、神話的女性の存在が言及される。

何より僕がこの岩波新書を読んでいて心を突き動かされたのは、大江が少年時代に何度も読み返したというハックルベリィフィンの冒険の引用部分。僕はこの作品を読んだことがないのだが、まさに「異化」された言葉を受けて非常な感銘を受けたのであった。


218p

総計 17117p