08読書日記113冊目 「言葉と物-人文科学の考古学-」フーコー

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

フーコー大先生の代表作。19世紀になって人文科学がいかにして成立したかを、「知の考古学」を通じて解明する。非常に難解。読むのに一ヶ月くらいかかった。4500円もするし。

前期フーコー独特の「知の考古学」とは、その時代における様々な学問の下層部分にある知の布置《エピステーメー》を解明していく作業である。後期に至っては「系譜学」というあり方で、知が権力に権力が知に依存する状態を描いた。考古学は主に、言語学、経済学、生物学の三本を基線としてエピステーメーを掘り下げていく。博覧強記ぶりはものすごくえげつない知識と精密な議論を展開されるので、ただ「へー」と言うしかない。圧倒される。

まず十六世紀までの西欧文化における知の布置が描かれる。それは《類似》の諸相である。そこでは物がすべて類似によって存在しており、知は物の外徴によって類似を発見することを役割としている。しかし、実際には物自体と外徴(あるいは外徴となる形態と外徴によって示される形態)とにはずれがあるのである。しかも物は言語(langue)によって表されて存在しており、極めて唯名論的だといえる。そこから、このラング=書かれたものに満ちた自然を解釈する学が生まれる。最初に与えられた神の言葉=パロールとすべて類似で関わりあう物を解釈し注釈することこそが、知の役割である。

しかし十七世紀古典主義時代になれば、その布置は一変する。それは例えばデカルトやベーコンによって変化の兆しが顕わしめられる。そこでは類似が退けられ、同一性と相違性、軽量と秩序の分析を可能とする《表象》の空間である。この《表象》の布置にあっては、ランガージュはもはや知覚に明証性を与える道具である。すなわちそれは合理性の働きによって物を分析し比較するために表象する記号(シーニュ)なのである。かつて物を解釈する手段であったシーニュ(外徴)は表象の空間で記号(シーニュ)となる。さてこの表象の空間においては、十六世紀に存在したズレというものは認識されない。表象空間は秩序の空間である。それはマテシスとタクシノミアを基礎にした学問によって補われる。このマテシスとタクシノミアの学は、博物学、貨幣と価値の理論、一般文法によって代表されている。古典主義時代においては言語(=記号=表徴)の実在こそが至上のものである。

十九世紀には、古典主義自体の同一性の表象空間が解体し、別の知の布置へ移行する。それはシニフィエ(所記)とシニフィアン(能記)のずれによって、すなわち言葉(表象)と物の間の決定的なズレによって生じる。物はいまや表象の外部に自己の内的空間を規定する。労働、生命、言語が、その外部を規定している。あるいはそれは大陸合理論とイギリス経験論の狭間を統合したカントの批判哲学においても明らかにされる。すなわち物の先験性と認識経験の間のずれをどう解消するのかという哲学である。客体として経験されるべきものは同時に先見的な場としてあらわれる一つの意識のうちに、物が解消される。

古典主義時代において秩序空間を可能にしていた表象=言語は、近代において《人間》に置き換えられる。ここで人間とは有限性=死から反射的に規定される《歴史》を持つものである。それは経済学においてはリカードマルクスの労働価値説であり、生物学ではキュヴィエの比較解剖学、言語学ではボップの比較文法である。ここにおいて知のエピステーメーを成り立たせているのは《人間》なのである。人文諸科学はこの《人間》についての学であるといってもいい。つまり、人間が主体的に行いうることを客体として認識する学問であり、それは認識の結果現れたものは実は認識以前に人間を《人間》たらしめていた物にほかならないという前提の上で行われる学問なのだ。また《人間》についての学とは普遍的特性をそなえた《同一者》の学であり、それはもはや知の外部にあって《歴史》を成立させるものである。マルクスヘーゲルの疎外の概念が、代表的なものであろう。つまり現在のcogito=「我思う」こそは《他者》であり、そこから人文諸科学を通じて《同一者》へと移行するとき、《歴史》が終焉に至るのである。

このような人文諸科学を解体するものこそ、ニーチェの超人の概念であり、哲学的笑い、哄笑である。また、《人間》についての学問はメタ的でもあり、科学ではないと言いうることもある。しかし、それについてエピステーメーが用意したものは精神分析文化人類学なのである。この二つの新しい学問こそは《人間》の実定性について制限されることなく、われわれの知について隠されている「構造」を発見する学なのである。このような構造主義こそは、実のところ、文化を規定しているコード(《人間》)から逃れ、人間についての知を可能にするのである。文化人類学精神分析は《人間》を解体し、ニーチェが予言したような人間の終焉を査定するのだ。

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総計32957p