映画『チェンジリング』

昨日、イーストウッドの映画『チェンジリング』を見てきた。イーストウッド自身は共和党よりの人間であり、「権力の腐敗」や「正義」というテーマが持ち出されることの多い監督である。僕自身は『許されざる者』、『トゥルー・クライム』、『ミスティック・リバー』、『ミリオン・ダラー・ベイビー』くらいしか見ていない(『マディソン郡の橋』まだ見てない!)ので、なんともいえないが、スペクタクル的なものを欲するハリウッドの中にあって静謐で巧みな映画を撮る監督だと言える。

端的に言って、僕は『チェンジリング』を非常に好感が持て、事実すばらしい映画であると感じている。希望がないということが露呈していながらもその希望という構造にすがりつかざるを得ない悲境を上質に描写しており、終結部においては静かに胸を打たれた。

本作『チェンジリング』は、北欧の民間伝承changelingをモティーフにしている。changelingとは「取り替え子」と訳されるように、人間の子供が妖精やトロールによって盗まれてしまい、その代わりに彼らの子供(その多くは狡猾で醜い姿をしている)を人間の子供に見せかけて母親のもとにおいていく、という内容を持っている。大江健三郎の近年の小説『取り替え子』でも同様のモティーフィングが見られた。

ロサンゼルスの郊外で暮らすシングル・マザー、クリスティン・コリンズは、1928年3月10日、彼女が働きに出かけている間に留守番をしていた9歳の息子ウォルターが失踪するという事件に見舞われる。有力な情報を得られぬまま五ヶ月が過ぎたとき、彼女の元にウォルターがイリノイ州で見つかったという朗報がもたらされる。しかし、クリスティンの前に現れたのは、最愛のウォルターではなく、ウォルターに顔立ちがよく似た見知らぬ少年だった。事実は、汚職にまみれたロス市警が批判を回避するために、母親に全く別の少年を押し付けて無理やり解決しようとしたのだ。母であるクリスティンは、息子ウォルターを取り戻す闘いを、腐敗した警察に向けて挑む……。

映画の本筋としては、前半部分で「警察の腐敗」が明らかにされ、その腐敗した権力に立ち向かう社会正義として、サスペンス的な要素が盛り込まれている。後半部分では異常犯罪として少年らが次々と誘拐、殺害されたことが明らかになり、堕落権力が断罪されると共に、本物のウォルター少年の居場所を母親コリンズ夫人が追い求めるという人間描写が中心となる。

サスペンス的な要素、社会派ドラマ的な要素、人間主義的な要素など、様々に盛り込まれすぎている感じもしないではないし、確かにそれを指摘し、「権力の腐敗」やいかにして人間が不純へと堕落するのかという過程が描かれきれていない、という批評も、web上では見られる。また、前半部分のスリリングな展開に比べて、後半の失速が冗長であるといった感想も散見されている。

しかし、一方で、僕は失速したはずの後半の終結部、アンジーがようやく「希望」を見つけたというところにこそ、著しくこみ上げてくるものを感じるのである。 あくまで鑑賞後一日ほど経ったあとにのこる印象的なものでしか述べることはできまないが、僕が言いたいのはこういうことだ。

この映画の主題は、社会正義を訴えること、すなわち腐敗した権力の断罪を訴えることでもなく、あるいは腐敗する/しない人間という不純/純粋を描くことでもない、のではないか。それよりむしろ、アンジー演じるコリンズ夫人の「希望」こそに映画の主題があるのではないのか、ということである。急いで説明を加えるなら、希望とはウォルター・コリンズ少年そのものである。ウォルター少年が純粋無垢を象徴していることはおそらく明らかであり、コリンズ夫人もまたウォルター少年の側、純粋無垢の側に寄り添っている、と言える。警察を断罪するのでも、社会正義を希求するのでもなく、ただ純粋に子供の帰還を望んでいるということ、また、犯罪者ノースコットによって法廷で言及される夫人の「公平さ」というようなものもその証左であろう。とはいえ、コリンズ夫人はまた「大人」の側の人間であり、その意味で両義的だと言える。

ところで、明らかなモティーフである『チェンジリング』については、web上であまり言及されてはいない。しかし、このチェンジリングという民間伝承を踏まえたとき直ちに想起されることは、イェーツにおいてもこの「取り替え子」を題材にした詩があるということである。イーストウッドは旧作『ミリオン・ダラー・ベイベー』において詩人イェーツの『イニスフリー』を引いていた。

イェーツの「取り替え子」を題材にした詩の有名な一節では、このように語られている。
『こちらにおいで! おお人の子よ!/いっしょに行こう森へ、湖へ/妖精と手に手をとって/ この世にはお前の知らぬ/悲しい事があふれてる』。

つまり、盗まれた子供は、大人の世界=「悲しい事」のあふれる世界を脱して、無垢なる「妖精」の世界へと旅立つことができる、ということにほかならない。「取り替え子」の多様な伝承には、交換された醜い子供をいじめることでトロルに自らの子供を返させる母親もでてくるが、一方で、トロルの醜く狡猾な子供すらも大切に扱い、むしろトロルの側に反省を促す母親も存在する。しかし、イェーツはさらなる解釈によって、この「取り替え子」を現実世界の批判軸にすえている。つまり、むしろ取り替えられたほうが人間の子供には幸せなのではないか、という逆説的な説諭である。

ウォルター少年がもはや大人の世界に帰ることがなかったのは、このことを暗示している。つまり、「悲しいこと」の多い現実世界を旅立ったほうが、むしろ幸福なのではないか、ということである。ウォルター少年が旅立ったのに対し、コリンズ夫人は大人であるために、妖精=無垢なるものの世界へと移行することはできず、現実の「悲しい」世界に滞留しつづけるよりほかはない。しかし、彼女は大人であると同時に、子供の帰還だけを純粋に望み続けるという意味で、「子供」的な性質を持ち合わせていた。つまり、自身も子供=無垢なるものの側に立つ両義的な存在だったと言えるのである。

では、彼女が映画の最後にようやく手に入れることができたと語る「希望」とは何だったのか。それは、表層的には、ウォルター少年がまだどこかで生きているかもしれないという期待である。しかし、チェンジリングという隠喩を踏まえれば、次のように考えざるを得なくなる。すなわち、大人の世界=「悲しい事」にあふれた世界のどこかに、妖精/子供の世界=無垢なるものの世界があるのではないか、という想像こそが、夫人の手に入れた「希望」だったのではないか、ということである。

「悲しい」世界においては、権力が腐敗し、異常犯罪さえ起きえる。しかし、それでもそのように汚れた世界においてさえ、無垢なる世界を望みえるということ、これこそが「希望」の含意することにほかならない。もちろんその「希望」とは明らかに、消極的に与えられている。「悲しい」現実世界にあって、それでも僅かに子供=無垢なるものが生き延びているのかもしれない、という可能性こそが「希望」である。しかしその「希望」は空虚な内実しか与えられてはおらず、社会からは諦念を促されるし、プレスビテリアンの神父からは天国にしか、無垢なるものとの再会(reunion)は望めない、と諭される。つまり、現実世界において「希望」は顕現することはないという了解が、彼女以外の社会においては保持されているのだ。しかし、それでも空虚な場として「希望」を現実世界に見出そうとする態度こそが、むしろ本来の「希望」なのである。イーストウッドは希望を否定する現実主義に傾くのでもなく、終末論において、すなわち「虚構」として希望を了承するのでもない。彼は、純粋に空虚である場として認識した上で、そのありもしない場所をいまだに現実世界において保持し続けようとする態度をこそ、「希望」と言い含めるのである。