'10読書日記4冊目 『賢い血』フラナリー・オコナー

賢い血 (ちくま文庫)

賢い血 (ちくま文庫)

読書会で読んだ本。オコナーを知ったのは大江健三郎経由だが、この本はかなり面白く読めた。というか、彼女の短編も是非読んでみたい。
読書会では、この本のどこが評価されているのか教えて欲しい、みたいな自分のあほさを曝け出している戯言などもあって、ほとほと嫌気がさしたが、自分がわからないものには全く価値がないとでもいわんばかりの傲慢さはどこで拾ってくるのだろう。知性と教養に対する真摯な姿勢がない。そういうのを育ちが悪いと言うのだ。
信じるということ、宗教・神の問題、そして神がいるからわれわれに罪が与えられている/罪が清められているというこの奇妙な構図を直視することこそ、この"神学"小説の中でオコナーが訴えたかったことにほかならない。この世界のどこかには、例えわれわれ日本人が神や宗教を「個人的に」「心から」信仰していないとしても、神を自らの内面の中に見いだして全力をそこに注ぎこむ人たちが存在すること、このことについての想像力を持てない人なら、もはや文学から得るものはないから、すぐにでも本を読むのをやめればよい。
本書の中心的な課題は、ヘイズが清めから穢れへと移行していくということに尽きる。最初彼は神がいるからこそわれわれに罪が与えられ、われわれから清らかさが奪われていると考え、《キリストのいない教会》を立ち上げようとする。しかし、ヘイズは実のところニーチェがそうしたようにキリストを葬り去って、ありとある形而上学を転覆させようとしたのではない。事実、彼は何度も「イエスのかわりになるもの」、「新しいイエス」が必要なのだと言うのである。そしてそれは「無駄にしてもいいような血を持っていない完全に人間であるイエス」なのだ。彼はこのようにして当初は自らの真理を救済するために、人々に新たなイエスを求めるのであるが、それは様々に混乱した状況を生んでいく。ヘイズの意図に反して、例えばイーノックやサバスは博物館の中に眠る醜い小人を、ホーリーはヘイズのそっくりさんを、「新しいイエス」にしたてあげ、ヘイズの前に現れるのだ。彼は結局、そのようなものは自らが望んでいた「新しいイエス」ではないとして失望することになる。
ところで、『賢い血』が喜劇小説である、と言うことは全く正しい。というのも、ヘイズが自身の心の中に見出しているはずの真理は、彼以外の人々にとっては明らかにされず、ヘイズの真理は小人やそっくりさんによって踏みにじられていくからである。実際、ヘイズの説教活動は誰にもまともに受け止められない。言葉を用いた説教では、誰の心にも、そしてヘイズ自身の心にも真理を引き起こさなかったのだ。簡潔にいえば、ヘイズが語る真理は、あらゆる人にとっては偽りにほかならず、彼の説教は散逸していくばかりなのである。それこそが、コメディである、しかもグロテスクな、とオコナーは言うのだ。
本筋に戻れば、彼は様々な説教活動を試み、眼に見えるものだけが真実だ、ということを言うのであるが、それらは全て挫折する。そして、最後に彼は自らの目に石灰水を塗りこめ、失明する。失明した後も、靴下の中に砂利を敷き詰めて町をさまよったり、服に有刺鉄線をまきつけて行動したりと、あたかも修道僧のような暮らしを送る。もはやヘイズは決して説教したりはしない。彼は自らを、「清らかではない」とさえ言うのである。ここにはいかなる転回があるだろうか。それは、彼が説教すべき宗教=真理=神を捨て、そして誰にも共有されえない自らに固有の真理にのみ没頭するより他はない、という転回なのである。ヘイズが基本的に批判していたのは、イエスの死によって自らが救われたのだと安穏する人々である。彼らはイエスの存在によって救われてはいるが同時に自らの穢れからは眼をそらし続けている。そして穢れから眼をそらすことを、救いだと勘違いしているのだ。そのような人々は自身の内面の固有性に無自覚である。彼らは自らの神、自らのみに真実である神を捨ててしまっている。
おそらく、ヘイズの批判の核心は、無宗教的でありながら慣習として宗教的であるものらの欺瞞に向けられているのだ。言い換えれば、例えば、神を信じてはいないと嘯きながら、おみくじを買ったり神棚に手を合わせるような行為の水準で神を信じているように振舞う人らを、批判しているのである。振る舞いとして慣習として神を信じている人々は、結果的に、神を信じてはいないと言いながらも、その神を抽象的な水準で固定化し、絶対的な規範として再定立させているのである。ヘイズ、そしてオコナーはそのような無宗教的な宗教性を批判したのだ。そして、神を信仰するということは、真に個人的なことであるということを伝えようとしているのである。
しかし、そのように真の宗教を、個人として神を信じることを訴えることは可能だろうか。言葉によって、説教によって、神の真理を伝えることは可能だろうか。言いかえれば、個人の実存の核心の中には必ず真実が存在するということを、説教を持って伝えることは可能だろうか。答えは、否である。上述したように、ヘイズの説教活動は偽のイエスの度重なる襲来によって打ち消され続ける。結局、ヘイズはおのれの眼をつぶし、苦行的な生活をして、最後は野垂れ死んでしまう。しかし、そのような個人的な宗教生活こそは、本来的な意味で説教的ではないだろうか。事実、ヘイズの最期を看取るフラッド夫人には、彼の生き方の奥に、彼の盲目の目の奥底にあるのが、「ただ一つの針の先のような光」であると気付くのである。ヘイズはそのか弱い一筋の光、遠すぎてたどり着けない光に、暗闇の中を(盲目のうちに)歩み寄っていったのである。ヘイズが眼をつぶしたのはなぜか、その答えは今やわれわれに与えられている。ヘイズは最初、彼の真理を言葉によって表そうとした。しかし、その試みはくじかれた。彼は説教をやめ、眼をもつぶしてしまう。それはあらゆる表徴の拒否にほかならない。真理を何かによって代表representさせるのではなく、徹底的に自分の内面のものとして受け取ること、それこそが真理を知ることであると、彼は悟るのである。ヘイゼル・モーツは今わの際になって、もはや何をも代表してはいない。彼は彼であったのだ。そして、それがもはや何をも表してはいないということ、何にも光が当たっていないと言うその暗闇の中に、最後に「針の先のような一点の光」が現れるのである。

254p
総計1001p

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