'12読書日記67冊目 『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』村岡晋一

ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル (講談社選書メチエ)

ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル (講談社選書メチエ)

236p
総計18503p
ドイツ観念論の入門書と言って良いだろうか、それはともかくとして、カント・フィヒテシェリングヘーゲルを一続きにして、互いに関連させながら論じられているので、見通しが良い。
キーワードになるのは、「終末論的陶酔」という言葉である。ドイツ観念論の特徴を、筆者はこの言葉に集約させる。それは、これまでの哲学史の総決算であるとして、つまり、あらゆる過去の上に現在を示すものとして、彼らが自らの哲学を打ち立てようとした、という意味である。〈現在〉を自らの哲学とシンクロさせて構築しようとしたのが、ドイツ観念論であったというわけだ。その〈現在〉――すなわち近代――のメルクマールの一つはフランス革命の自由であろう。カントからヘーゲルまで、この歴史的大事件が担った自由という考え方を哲学的に精緻化しようとしなかったものはいないのだ。
一般的な感想として、哲学に興味はあるものの、ドイツ観念論特有のとっつきにくさに気圧されて手が伸びない人には、思想の森に踏み込んでいく際の一つの手がかりになってくれる本だと思う。ただ、シェリングにまで読み進めていくうちに、(僕が単にカンティアンだからなのかもしれないが)一体この人らにはどういう根拠があってこのような断定が可能なのか、との思いを禁じられなくなってくる(とくにシェリングの自然哲学あたり。自然と人間にともにあるという「親和力」や「同種性」の原理などは物自体にすぎないのではないか、いったいこのようなものをいま読むことに意味はあるのか、と疑問を感じて当惑した)。ところが、このあたりのきつい苦しいゾーンは、シェリングの後期の思索、とくに「ドイツ観念論以後のシェリング」の節になると、とたんに面白くなってくる。というか、ヘーゲルの話よりもこのシェリングの節にむしろ面白みを感じる。時間論・時間構造について、その政治理論的な含意について、ここのところ考えることがあったので、その点を面白く読めたのだろう。あるいはローゼンツヴァイクベンヤミンの研究が専門の筆者の筆も、軽快であるのかもしれないが。
文章自体はそこまで平易ではないが、ゆっくり読み進めていくと理解が深まって良い。「講談社選書メチエ」はいい本をいっぱい出している。